私たちのこと

私たちの思いから生まれるさまざまな活動は、歳月を重ねるごとに少しずつ増えています。そんな中でも、私たちらしさが込められた代表的なものを、いくつかご紹介していきます。

私たちのこと

1980年代

創業の原点は、足元の宝、拾う文化。

群言堂の創業者、松場大吉・登美が大吉の故郷である石見銀山大森町に帰郷したのは、1981年の頃。「都会が忘れ、捨てたものを拾おう」と、縫製工場から端切れを引き取ってものづくりを始めたのが、ブランドの原点でした。地元の主婦の方々に声をかけ、ジャパンカントリーをテーマにパッチワークキルト商品を開発し、BURA HOUSEブランドとして展開。最初は作ったものを車に乗せてワゴンで販売するところからで、紆余曲折を経て少しずつお客様が増えていきました。1989年には、現在の群言堂本店の場所の古民家を改修し、コミュニケーション倶楽部BURA HOUSEを開業。当時人口わずか500人の小さな町への出店は大きなチャレンジでしたが、ここでしかできない場所を作ろうと、思いを込めて開業しました。

1990年代

日本のものづくりや生活文化を紡ぐ、群言堂へ。

小さな町から少しずつ広がってきた事業は、大きな転換点を迎えます。
カントリー調のパッチワークキルトの製品は、当時の流行もあり、多くの方々に喜ばれ広がっていきます。その一方で、石見銀山に根ざし、日本のものづくりや生活文化を継承したいと強く思うようになり、群言堂ブランドを新設。日本人の日本人による、日本人のための洋服をテーマに、産地と連携したものづくりをスタートさせました。またその世界観を作っていくために、地域の古民家改修も少しずつ進めていきます。広島の茅葺き屋根の豪農屋敷を会社のシンボルとして移築し、日本の原風景が次の世代へつながっていくようにもしました。

2000年代

生き方、暮らし方の発信を、石見銀山から。

群言堂ブランドとして、全国の百貨店などで直営店を展開し事業として成長していく一方で、石見銀山は世界遺産へ登録されます。喜びの声とともに、オーバーツーリズムなどの課題も深刻になっていきます。その当時、東京大学名誉教授 西村幸夫先生からこんなメッセージをいただきます。 「大森は、ライフスタイル産業、ライフスタイル都市の世界標準になるかもしれない。ちょうど、アンチ・マクドナルドに端を発したイタリアのスローフード運動が世界的な広がりを見せたように。大森が世界を名乗るときには、そんじょそこらの世界遺産なんかではなく、こんな構想を持ってもらいたいものだ。」 このメッセージをいただいた時から、石見銀山から世界に、生き方、暮らし方を発信したいと考えるようになりました。
そんな思いから、美しい日本の暮らしを後世に伝えようと、「暮らす宿 他郷阿部家」の事業につながっていきます。

2010年代

群言堂ならではの、社会の中での役割を模索。

群言堂はライフスタイルブランドとして、さまざまな試行錯誤を重ねていきます。衣食住のすべてを網羅せんと、アパレルだけでなく、生活雑貨や飲食事業、梅花酵母を使用したスキンケア事業など、多岐にわたる事業や商品展開が始まりました。
その一方で繊維産業の日本製の割合は2%を切るようになり、この先絶滅するかもしれないという危機感が大きくなります。また石見銀山では、地域づくりや観光のあり方など、地域の課題も大きくなっていきます。グローバル社会になり、世界が大きく変化をしていく中で、群言堂ならではの社会的役割を模索する10年でもありました。

2020年代

より社会に必要とされるブランドへ。

新会社設立、グループ経営、事業承継と、群言堂の経営体制が大きく変革していきます。2022年には創業者の松場大吉、松場登美から、松場忠、峰山由紀子に経営が引き継がれ、日本のものづくりの継承や、これからの暮らし方の提案を目指して、より責任を持った取り組み方を進めるための試行錯誤が始まりました。それまで展開していた複数ブランドをひとつにまとめて方向性を明確にし、古くなった思い出のある一着をさらに長くご愛用いただけるようにする「お気に入り相談室」を設立したことも、そうしたチャレンジの例です。さらに、石見銀山のあり方についての思いから、2つのグループ会社を設立しました。ひとつは株式会社石見銀山生活観光研究所で、石見銀山の暮らし方を世界に誇るライフスタイルであると考えて生活観光事業を推進。もうひとつは株式会社石見銀山地域経営研究所で、持続的な地域づくりを目指して地域そのものの経営を考え、仕組み化していく事業を進めています。2020年代は、私たちの提案をこれまで以上に広げ、社会への役割を果たしていくための整理と展開の時期となっています。