
大原の築百年の古民家に移り住んで、家や庭に手を加える日々が続いたが、ぼちぼち僕のライフワークである山登りに行こうという気持ちが募ってきた。
この家と最初に出会ったときに、この家を通して新たな世界が開けそうな予感がしたと前にも書いた。
僕にとって、新たな世界とは写真を通して生きる道を探るということだ。その頃僕はインド料理店をやって生計を立てていたが、ほんとうはプロカメラマン、かつ芸術作品をつくる写真家で生きていきたいと模索していた。
僕の写真のテーマは山や自然、そして登山である。好きで山に登るだけでなく、写真を撮るためにも僕は山を歩き回らなければいけない。そして、その時期がようやく来たのだ。

話は変わるが、この家で暮らすよりもだいぶ前に僕は大原で暮らしたことがあった。しかもここと同じ町内である。だから、この家を見に来たとき、家は気に入ったが、ちょっと複雑な想いもあった。
大原は山に囲まれており、その中のひとつに金比羅山という京都では珍しい岩山がある。
近代登山が日本国内で発展していく過程で、全国各地にある岩山の中で、わりと早い時期(大正から遅くとも昭和初期頃)から金比羅山の岩場ではロッククライミングが行なわれていた。
19歳で京都に暮らし始めた頃から、僕も金比羅山の岩場へ通いロッククライミングをするようになった。

インド料理屋を自分で開いてからも、休みの日は恋人と会うのではなく、金比羅山で冷たい岩を一人で触っていた。そんなある日、店の常連のTさんと金比羅山登山口で会った。
これまで何度かこの辺りで彼女の姿を見かけた事があった。でも、彼女が離婚したことを風の噂で知っていたから、僕は遠慮して話しかけないでいた。
短いあいさつの後、彼女は僕に「私も岩場へ行ってみたい。連れて行って欲しい」という。そのときから金比羅山へ二人で通うようになった。
彼女はすぐ近くに住む「大原の画仙人」とも呼ばれる著名な日本画家、小松均の内弟子になったと話してくれた。だから、彼女はここで暮らしていたのだ。どおりでよく見かけたはずである。
やがて、彼女の小学生の息子を含む3人で、僕たちは金比羅山の森の中に暮らすようになった。彼女は内弟子を辞めて師匠の家を出たのだ。

僕は男子だけの学生アパートに暮らしていたし、インド料理屋の契約期限が迫っていて、次に何をするのかまだ決めていなかった。つまり宙に浮いたような状態だった。
彼女が暮らしていた師匠の家からわりと近い金比羅山の森の中には、プレハブ小屋の倉庫があった。近くに住む家主に、しばらくそこに棲みたいことを告げると、親切にもタダで貸してくれた。飲み水は沢から、電気は家主の自宅からもらった。20mほど必要な電線は家主が用意してくれた。
インド料理屋があるので僕は毎日働きに通ったが、充実して幸せな日々を送っていた。山小屋のような暮らしを楽しんでいたのだ。ところが、世間から見るとそれとは違う見方もあったようだ。
ある日、近所の主婦が2人で我が愛する棲家へ訪ねてきた。「何かあったんですか?大変ですねえ。でも世の中、悪いことばかりじゃあないのよ。きっと、そのうち幸せになれるから、いいの、いいの。がんばりなさいね…」。
そして最後に「これを読んだら必ず元気になりますよ。あなたたちの助けになることが書かれています」と、僕には必要のない教えの書かれた印刷物をプレゼントしてくれた。

そこで半年ほど暮らした後、僕たちはプレハブ小屋を出た。そして半年間インドへ旅に出た。彼女の息子は、お父さんの家で暮らすことになった。
僕は彼女と結婚して5年間ほど一緒だった。いろいろ書けばキリがないので簡単に書くが、ベニシアと彼女は昔からの深い友人であり、僕が彼女と別れてベニシアに相談したことが、ベニシアとの出会いに繋がったのかもしれない。
大原の今の家に越してきたとき、あのときの主婦2人とは顔を会わせたくないなあと僕は思っていた。とはいえ、僕はすでに2人の顔を忘れてしまっている。きっともう何度も会っていることだろう。人生にはいろいろなことが起こり、そして僕は今日も山へ登るのだ。
筆者 梶山正プロフィール

かじやま・ただし
1959年生まれ。京都大原在住の写真家、フォトライター。妻はイギリス出身のハーブ研究家、ベニシア・スタンリー・スミス。主に山岳や自然に関する記事を雑誌や書籍に発表している。著書に「ポケット図鑑日本アルプスの高山植物(家の光協会)」山と高原地図「京都北山」など。山岳雑誌「岳人」に好評連載中。
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