この読みものは、2026年1月発売『とみとふく 76歳、古民家ひとり暮らしの登美さんと、保護犬フレンチブルドッグ福の幸せな日々』(小学館)より、第2章「福は気まぐれ」の一節を転載しています。
猫かぶりの犬
「この子、猫かぶりじゃないの?」
福が来てしばらくしてから、由紀子がそんなことをよく口にした。犬が猫をかぶるとは面白い。この時点で由紀子は、福が只者ではない気配を感じていた。
AIのGeminiに聞いてみると「猫かぶりとは、本性を隠しておとなしそうにまたは善良そうに見せかけることをいう比喩的表現で、多くの場合、裏に悪意やずる賢さが隠れていることを暗示する」と教えてくれた。
まさか福が悪意を隠しているなんて。ましてやずる賢さなんて微塵も感じさせない。そう信じていたが、まてよ、ひょっとして福は呆気者を演じて実は……と戦国武将の誰かのように考え始めた私。
福はとにかくのろま。歩くのものろまなら、ご飯をあげても離れて見ていて、しばらくしてからおもむろに食べ始める。この間などは野良猫が来て福のご飯を食べているのを眺めていた。このあたり人が良い、いや犬が良いと思わせているが、けっこう悪知恵は働くのかもと思い当たる節がある。私が先導しているつもりが、実は福の思いどおりにさせられている気がする。
このことは書こうかどうか随分と迷ったが、福のずる賢さを証明するために世間の批判は覚悟の上で書くことにした。世間体を考えて福にはリードを付けているが、実は手から放していることがある。人通りがほとんどない田舎町ならではである。福は人がいる時はリードを付けても歩くのに、通りに誰もいない時はリードを放さないと歩かない。眉唾とおもわれるかも知れないがこれホント! 家族からはちゃんとリードを持っていないとダメよと叱られる。はい、そうしたいと思います。犬が犬なら飼い主も飼い主だといわれないように。
かつて本社に出勤していた頃は敷地内に入るとリードをはずしてやっていた。リードを外しても福は私の傍から離れず、リードが付いているかのように歩調を合わせ歩く。躾らしい躾は何もしていないのに。リードを外してもどこにも行かず、勝手な行動はしないのだ。
このことを不思議に思い、犬を飼っている友人たちに聞いてみた。
「散歩の時にリードを放したらどうなる?」
返事は決まって「どっかに行っちゃうに決まってるじゃない」だった。
もちろんちゃんと躾られた犬もいると思う。ドッグランに行ったら福がどんな行動をするのか見てみたい。残念ながらこの田舎町にドッグランはない。唯一ドッグランらしき場所と言えば本社前の田んぼか畦道だろう。私が一緒に田んぼに入ればついてくる。とにかく私から離れない。有難迷惑とはこの事だろう。喜ぶべきことだとは思うが、私が福より先に虹の橋を渡ったらと考えると心配だ。
私は常々、80〜90歳まで生きたいと公言している。ただ長生きがしたいという事ではなく、人生年を重ねてからが面白い。それにその年になった自分に興味があるのだ。夫は「大丈夫、憎まれっ子世に憚ると言うから太鼓判おすよ」と言うが、いやいや「美人薄命って言うじゃない」と言い返す。
フレブルの平均寿命で計算するとほぼ一緒の頃にいけそうだと妙に安心した。福を連れて虹の橋を渡る絵が頭をよぎる。
なんてファンタスティック!


