群言堂パタンナー
日吉乙江(ひよし・おとえ)さん
この記事は、2021年4月に公開されたものです。
祖父のテーラーに通った幼少期
東京で生まれ育ち、東京でずっと働いてきた日吉が群言堂と関わりはじめて早や15、6年、そして大森町に移住してからは4年が経った。
まさかこんなにどっぷりとこの町に関わることになるとは思っていなかった。
実家は文京区の中でも東京大学や根津などが近くにあるエリアで、すぐ近所で祖父がテーラーをやっていた。
幼い頃から鍵っ子だったので、学校から帰るといつも祖父の店に寄り、働く祖父と叔父を近くで見ていた。
そんな日吉にとってものづくりの道に進むことはごく自然なことであった。
生まれた昭和40年代はまだ服や手芸、編み物など何かと家庭で手作りする時代だ。そんな背景もあり、小さい頃から学生カバンの巾着など何でも自分でつくっていた。
その流れで大学では被服学部を選び、アパレルメーカーでの事務を経て30歳で文化服装学院に入学、本格的に服づくりを学んだ。
仕事に打ち込んだ30〜40代
文化服装学院卒業後はフリーのパタンナーとして舞台やCM の衣装を手がけた。深夜早朝も当たり前の毎日で、気がつけば30〜40代を駆け抜けていた。
しかしある時、衣装を手掛けていた舞台が中止になり1カ月間ポッカリとスケジュールが空いたことがあった。
この時しかない、と一念発起してヨーロッパ旅行に出掛けた。久しぶりにゆっくりと過ごして、はじめて「休んでいいんだ」ということに気がついた。
自分にしかできない仕事をできるときにやればいいんだと考えが変わり、それまでは断っていた遊びの誘いにも乗るようになった。
人の誘いに乗る楽しみは、自分一人では行けない世界に連れて行ってもらえること。人はいつも自分にないものを届けてくれる。
群言堂との出合い
群言堂のことは最初、友人のデザイナーの元で松場登美の三女・奈緒子が働いていたことがきっかけで知った。
そのご縁で群言堂の服のパターンを1、2型やらせてもらい、後に新ブランドの立ち上げの際に本格的に外部パタンナーとして関わることになった。もう16、7年前のことである。
そうして年に数回、展示会の前に大森町を訪ね、2泊3日で仕事をして帰るという出張をするようになった。
10年以上のお付き合いが続いたある日、定年を迎えるスタッフに代わり本格的に大森で働かないかと誘いを受けた。
会社に所属することは考えていなかったが、群言堂なら自分だけではできない経験ができそうだと決断した。
当初1年くらいのつもりが、大森の魅力に取り憑かれ、あっという間に4年が経った。
暮らしの楽しみ
10年以上大森に通ってきたが、仕事ばかりで町のことはほとんど知らないままだった。
移住して初めて、自然のままに木々が揺れる姿、石州瓦が月明かりに照らされて光る様など美しい風景に気づいた。
寮生活を共にする若いスタッフはみな娘同然の存在になり、会社の大好きな仲間も増えた。苦手だった虫も、今では網で捕まえて寮で飼っている鶏に与えられるほどになった。
町の方々と関係を築いていくのもとても楽しい。運動会の直会やBBQのほか、山菜採りや星空観察会など、知らないことを教えてくれる先生もたくさんいる。
季節に合わせて楽しいことだらけで、楽しまなきゃ損とできる限り参加している。
ある時ご近所の方が「腰が痛い」と言ったことがきっかけで、月一ヨガ会の講師をすることにもなった。自分のできることが周りの助けや楽しみになることが嬉しい。
続けるうちに教える責任を感じるようになり、本格的に先生の資格を取るため勉強中だ。

新たな拠点づくり
祖父のテーラーだった場所は現在、東京のアトリエとして使っている。
大森でも拠点が欲しいと場所を探していたところ、最近スタッフが暮らし始めた家の一部を使わせても
らえることになった。
今はそこにミシンを置いて、いろんな仕事ができるように整えている最中だ。
人のために自分を生かす
40代はじめごろから老眼が入りはじめた。
困ることもあるが、できないことはできないと固執せずに諦めがつき、受け入れられるようにもなった。
50を過ぎ、会社で働ける時間はあと10年もない。
自分に何ができるかを日々考えながら、ありがたい環境を与えてもらっているお返しをしていきたいと思っている。
つい先日、大森小学校の子どもたちにミシンを教えに行く機会があった。彼らの素直な視線を見ていたら、もっと子どもたちがのびのびできるワークショップをやりたいという気持ちが湧いてきた。
ファッションの世界のいいところは、個性や自由があっていいことだ。
自分の経験を生かして、彼らがそんなことを感じるきっかけをつくれたら何よりの幸せである。
書き手:三浦類

