群言堂本社 パタンナー
神吉美穂子(かんき・みほこ)さん
この記事は、2016年10月に公開されたものです。
神吉美穂子は1987年に神奈川県に生まれて以来、結婚して神戸に移り住むまでずっと首都圏に暮らしてきた。
中学校までは神奈川、中学3年からは東京に住み、現在も実家は東京にある。
中学生の頃にはすでに洋服に関わる仕事がしたいと思っていた。5歳年上のオシャレ好きな姉がいつも色々な洋服を着せてくれたことで、物心ついた時から洋服が好きになっていた。
中学3年時に実家が東京に引っ越したのを機に洋服好きはさらに加速した。
高校は恵比寿というロケーションで選び、遊び場は原宿、そして古着屋でアルバイトをして得たお金をそのまま古着など洋服に費やすというファッション漬けの日々を過ごした。
私服の高校で縛りも少なく、髪の毛を金色や紫色に染めていた時期もあった。進路選択は迷わず恵比寿の服飾系専門学校を選んだ。
当初は特に職種を考えずに漠然と洋服の仕事がしたいと思っていたので、入学した時は周りの学生のストイックさと真剣さを目の当たりにして少し落ち込んだこともあった。
しかし次第にパタンナーという仕事に惹かれ、2年目からはパタンナー職のコースを選択し経験を積んでいった。
専門学校を卒業して、就職活動中一社だけ受かった大手アパレル企業でパタンナーの仕事を得た。
6年間東京で働いたのち、夫の地元である神戸に異動希望を出して2年間、計8年間その会社で働いた。
その仕事に大きな不満があったわけではないが、昨年出産を経験したことが、人生を見直すきっかけになった。
夫である神吉絵(かんき・かい)は出会った時、東京でミュージシャンとして活動しながらバーをやっていた。専門学校に入りたての18歳の頃、そのバーに友人に連れられて行ったのが出会いだ。
その時に話していて家の最寄駅が同じだということが分かり、何度か駅でばったり会ううちに仲良くなっていった。
やがて付き合うことになり、7年ほどの交際期間を経た末に結婚した。
結婚から1年後、神戸に引っ越したことを機にミュージシャンの仕事はきっぱりと辞めて印刷所に就職し、以前よりレコードレーベルなどで独学で学んできたデザインやレイアウトを専門とした。
昨年の5月にめでたく娘の縫(ぬい)が生まれた。産休中にこれからの生き方をじっくりと考えて、田舎で子育てしたいねと夫婦で話し合った。
仕事の上でも、流行をひたすら追いかけて、大量生産の現場で売れ残りが出た時など、自分が作ったものが大切に扱われないことに小さな疑問を持ち始めていた。
小規模でも、丁寧なものづくりで人に喜ばれるような仕事がしたいと思うようになった。
まずは移住をと考えて同じ兵庫県内でも六甲山近くの方で物件などを探したが、行ってみると少し違うと感じてすぐには移住先が決まらなかった。
たまたま「日本仕事百貨」で群言堂の求人を見つけたことで、物事が動き始めた。
ものづくりの姿勢への共感と、地方でもパタンナーの仕事が続けられることが大きな魅力だった。
応募して選考が進み、大森町の本社で行われた最終面接の時のことが記憶に新しい。
それは今年2016年の初頭で、遠い上に寒く、本社に向かうと茅葺の家があって一体どんな会社なのだろうとどんどん不安が募った。
しかし本社社屋に足を踏み入れた瞬間のスタッフの挨拶や会長、所長、先輩パタンナーとの面接を通して、楽しんでものづくりをしている会社だということが良くわかり、ここで働きたいという気持ちが湧いてきた。
幸いなことに並行して大森近くで探していた夫の仕事もスムーズに決まった。しかも、これまでの経験を生かせるグラフィックデザインの仕事だ。
職場の川本町は大森から車で約30分というアクセスも悪くない場所で、家もすぐに決まり借りることができた。移住は驚くほどトントン拍子に進んでいった。
この6月から群言堂「登美」ブランドのパターンの仕事がスタートして約4ヶ月が経ち、朝、川本の自宅から車で1分の保育所に娘を預け、夫を職場に送り届けてから出社するリズムにも慣れてきた。
仕事ではまだブランドのイメージをつかんでいる最中でばたばたしているが、こちらも早く慣れてちゃんと仕事ができるようになりたいと思っている。

仕事と同時に川本での暮らしにも順応していかなければならない。
草取り、防災イベントなど何かと町内のイベントがあって田舎暮らしの大変さを感じる時もあるが、近所の方に猪肉や野菜をもらえたり、スーパーなどに出かけると周りの人が娘をあやしてくれたり、やさしい人たちに囲まれる安心感もある。
ありがたいことに子育てと仕事の両立の面でも会社や同僚の理解があって、時には先輩ママから子育てのアドバイスももらえる。
夫や娘にとってもまだまだ慣れないことだらけだが、お互いに支え合って暮らしながら、新しい道を切り拓いていくのが楽しみだ。
書き手:三浦類

