ディスプレイ作家の
山内真澄美(やまうち・ますみ)さん
この記事は、2019年12月に公開されたものです。
山内真澄美のキャリアの原点となったのは生け花だった。
父の仕事の関係で大阪に生まれ育った山内は中学3年生の時に実家の島根県大田市仁摩町大国(大森の隣町)に引っ越した。田舎の良さを実感したのも束の間、高校では田舎の不便さを感じ、すぐに大阪に帰りたくなった。
高校卒業後、晴れて田舎を出て灘神戸生協に勤めることになった。
暮らし始めた寮では習い事をしないといけない決まりがあり、月謝の安い生け花をやることにしたのだった。
ある時、アートフラワーをやっていた母の影響で友人の結婚祝いにブーケをつくり、それをきっかけにフラワーアレンジメントの資格を取る教室に通うことになった。
その教室のイベントで百貨店に作品と名前が展示されたことがあり、それ以来百貨店のウィンドーを飾る仕事に憧れるようになった。
意を決して生協を辞め、花屋に転職した。
生活はギリギリだったが、結婚式やパーティ、生け込みなどいろんな花の仕事ができて楽しくて仕方がなかった。
やりながら、田舎ならどこにでも生えているような花が高く売られているのを見て、田舎でできることがあるのではないかと可能性を感じていた。
そんなある日、神戸のよく行く雑貨屋で「石見銀山」とタグに書いた商品を見た。実家の隣町に本社のある群言堂のものだった。
25歳頃に花屋を辞めて島根に帰り、フリーランスで仕事をやり始めた。
ある時大森の群言堂本店に足を運ぶと、玄関を飾るディスプレイが目に入った。生意気ながら「もっと良くできるのにな」と心の中で思った。
人を介して大吉つぁん登美さんを紹介してもらい、大胆にもディスプレイの提案をしに行くことになった。
若気の至りが幸いして、月単位でディスプレイの仕事をさせてもらえることになった。
しばらく経って、広島で群言堂の展示会などの設営をやっていた会社に勉強に行ってみないかと大吉つぁんに言われ、それなら1年くらいやってみようと行くことに決めた。
しかし結局1年では何も分からず、学びを得た手応えを感じるまでに4年かかった。
会社の社長はとてもセンスのいい人で、アシスタントとして花だけでなく布などあらゆる素材を使った手づくりのディスプレイなどを経験できた。
そして当時初めて、憧れだった百貨店のウィンドーの仕事にも関わった。
4年後、ようやく仕事の幅も広がった実感がぼんやりとだが持てるようになり、島根に帰る決心をした。
打ち合わせからプランニング、予算感まで考える経験を積めたことが、のちに自分で仕事を開拓していく足がかりになった。
島根に帰ってからは市役所の臨時職員をしながら、休日に少しずつディスプレイの仕事をし始めた。
ちょうどその頃仕事で出会った木工職人と結婚し、鳥取県の伯耆町へ移り住んだ。
一人息子が生まれた頃、ブラハウス10周年記念でものづくりの展覧会があり、大森在住の鉄の彫刻家、吉田正純氏の指名でそこに出展することになった。
初めてアーティストとして表現する機会である。
吉田氏からはタイトルをつけた理由などかなり深く質問をされ、苦しかったが掘り下げて考えることの大切さを教わった。
それ以来毎年一つ何かに出展することに決めている。
その後夫と別れて島根に帰ることになり、群言堂に入社。
5年ほど一通りいろんな仕事をして、もう一回フリーでやってみる気持ちになった。ありがたいことに玄関のディスプレイはその後もやることになり、今まで続いている。
振り返ると、これまで仕事をやってこられたのは家族のサポートのおかげだと感謝の気持ちが湧いてくる。両親や妹家族、息子、そして今まで出会ったすべての方々、できごと。何が欠けても今の自分はないと思う。
そして今の自分の仕事において、昨年亡くなった父の存在が何よりも強い影響を与えている。
子どもの頃の父の印象は薄いが、実は同じ会社で仕事をするようになったこの10年くらいで初めて、父のやっていることに対して関心が湧いてきたのだ。
工房で黙々と仕事しているところや、こっそり「登美さんに褒められた」などと言って嬉しそうにしているところなど、同じ現場で仕事をする度にそれまでとは違う父の顔が見えた。
時にやられた〜と思うこともあり、ライバルのように意識しながら仕事をした。
父は、仕事であろうとなかろうと相手に喜んでもらうことを大切にしていた。
仕事に対して対価をもらうのもプロだと思っていたが、相手がどれだけ喜んだかこそがプロのものさしなんだと気づかされた。自分もそうありたいと思う。
亡くなった寂しさは今もあるけれど、残してくれた気づきは本当に大きな財産だ。若い時には気づけなかったことだから、歳をとるのは悪いことじゃない、生きることはいいなとしみじみ感じる。
今でも仕事をしていると、父がどこかにいて見ているような気がして気が引き締まる。
本当にやり切れているか、もうひと頑張りできる余地はないかと意識させられるのだ。
今年4月から再び阿部家・加藤家に関わるようになった。いつの間にかずいぶん年配者になったけれど、子供世代の人と一緒に日々新鮮な気持ちで働いている。これからも与えられた場で、仕事を通して人を喜ばせたい。
書き手:三浦類

